Masuk
おぼろげな意識の中に浮かぶのは、一人の少年。魔王と目が合って、へたり込んだ体は震えていた。
あどけない瞳には、恐怖が浮かんで当然だった。なのに、あの瞳は――まるで憧れの相手を見付けたように、魔王を見つめ続けた。
おおよそ人間が魔王に向ける目ではない。
(怯えない人間もいるのか)
捕食する魔族に人間が怯えるのは道理だ。
だったら、あの瞳が意味する感情は?
よくわからないから、考えるのをやめた。
わからないことは深追いしない。生きるに必要ない思考だからだ。
なのに時々、あの少年の瞳を思い出す。
リンデル王国の最北端にそそり立つ岩山。その最上部には「北の魔王」の居城がある。人間を生の糧とする魔族を統べる王だ。城の一帯は魔国と呼ばれ、魔族が跋扈している。
魔鏡を眺めて、魔王は溜息を吐いた。
「あーぁ、また来ちゃった。何回来ても同じなのになぁ」
人間のパーティが魔王討伐のため、魔王城にやってくる。その度に返り討ちだ。
魔力量も身体能力も体の頑丈さも、総てにおいて魔族が勝る。人間は逆立ちしたって魔族に勝てない。
「何百年、同じこと繰り返したら、勝てないって気が付いてもらえるのかなぁ」
多くのパーティが魔王城を目指して、人間の国から魔国までやってくる。道のりもまた、人にとっては険しい。城まで辿り着けるパーティは、ほとんどない。
実際に魔王が相手にするパーティの数は、多くはないのだが。
「餌としては重宝するけどさ。別に、人間を殺すのが好きなわけじゃ、ないんだよねぇ」
戦いを挑まれれば、魔王も対応せざるを得ない。
「城が血で汚れるの、嫌い。人間の血って、鉄臭い」
かといって生け捕りにすると檻の中で自害したりする。勝手に死なれると、死体が腐って面倒だ。
「せめて、今から自害しまーす、とか言ってくれたら、こっちも対応できるのに」
魔王城にまで辿り着いたのだから、今回のパーティは強いんだろう。血の雨が降るのは必須だ。
魔鏡を覗いた魔王の目が、留まった。
「あれ、この子……」
戦士の後ろについて歩く勇者らしき青年を眺める。見覚えがある気がする。
「それはないか。餌の顔とか、いちいち覚えてない」
魔王にとり人は皆、同じ顔に見える。
「けど、この子は可愛いかも。造形は好みかな」
人間に興味を持った自分に、少しだけ驚いた。
「俺は先頭、歩いてる戦士が好みだね。魔族転嫁したら使えそう」
後ろからランドールが魔鏡を覗き込んだ。如何にも魔王軍団長らしい意見だ。
「そういえば、魔王軍も数が減ったねぇ」
最近は魔族の討伐隊が増えた。手練れも増えてきたから、応戦に苦心している。
魔王は、魔鏡をじっと見詰めた。ランドールが言う通り、このパーティは使えそうな手練れが多い。
「餌にするのは、勿体ないか。でも魔族転嫁は本人が望まないとね」
人間が「魔族堕ち」と呼ぶ魔族転嫁は、本人が心から望まないと変化がない。一方的な暴力では成立しない。
「とりあえず魔印で奴隷とか、良いんじゃねぇの? それからじっくり考えてもらえば」
ランドールが口端を上げた。
魔印は従属の強制だから、考える余地は確かに生まれる。
(時間をあげても納得するかわからないよね。無理矢理に魔族にしても、面倒事の火種になるからなぁ)
かといって、既に魔王城までたどり着いているパーティだ。直接対決は避けられない。魔族にしないなら、最初から殺して餌だ。
「試す分には、いっか。ダメそうなら餌にするってことで」
「んじゃ、今回は魔族堕ちコースってことで。しっかり弱らせてから玉座の間に誘い込むぜ」
ランドールが手を振って出ていった。背中が既に楽しそうだ。ランドールなりに考えがあるのだろう。魔王軍の人手不足も深刻だから、ランドールの意見は無碍にも出来ない。
「なるようになるかな」
魔王は深く考えるのをやめた。
その目は自然と、魔鏡に映る勇者の姿を追っていた。無意識の視線が意識して彼を映す瞳に変わろうなど、この時は予想もしていなかった。
魔王は勇者の前に立った。その顔を眺める。勇者が、魔王を睨み上げた。(さて、勇者君……シャムル、だっけ。この子は厄介そうかな) 魔王はシャムルの口に指を翳した。すっと横に引く仕草をする。シャムルの口が開いた。「お前たちには屈しない。兄上を取り戻して、魔王をたお……んっ」 シャムルの顎を掴み上げると、その唇に噛み付いた。重ねた唇から、魔力を吸い上げる。(やっぱり美味い。この魔力は独占したくなる味だ) 喉を鳴らしてごくりと飲み込む。味見のつもりが結構な量を吸い上げたらしい。シャムルが息を荒くして、体を震わせている。「はぁ、はぁ……ぁ……」 足の力が抜けているから、魔法枷に支えられて吊られている状態だ。(うっかり食べ過ぎた。食い尽くして死なせないように気を付けないとね) 魔王はシャムルの顎をすぃと撫でた。「魔力を吸われるのは、気持ちがいいか?」 魔力を食われると、人は性的快楽に似た感覚を覚える。快楽は強い依存性がある。シャムルが俯いたまま、小さく首を振った。(勇者だしね。この程度の快楽には、屈しないか) 魔王はシャムルの耳元に顔を寄せた。「お前の望みを言ってみろ。この魔王が叶えてやる」 そっと首に手を添える。少しずつ魔力を籠めると、黒い光が立ち上った。薄らと、首に魔印が浮かぶ。「私の……望み、は……」 抵抗できない体が、魔王の魔力を直に吸い込む。シャムルの目が虚ろに蕩けた。「お会い、したかった……ずっと。そのために、今日まで……くっ!」 力を戻したシャムルが歯を食いしばった。「違う、私は……魔王を倒して、人が食われない世界を作るために、今日まで努力して」 足に力を籠めて、シャムルが顔を上げた。「だから、負けない。私がお前の命を奪う。奪われる苦しみを思いしれ」 魔王は口を引き結んでシャムルを眺めた。 シャムルの言葉は明らかに魔王を打倒しようという文言なのに。その瞳は潤んで、まるで憧憬に染まって見える。(この、瞳は……) おぼろげな景色、既にぼんやりと曖昧な記憶の向こう。あの時の少年の瞳と重なった。「お前の望みは、魔王に会うことか?」「違う!」 シャムルが大きな声で拒絶した。「魔王を倒すために来た。殺すために来た。会いたいなんて……話したいなんて、恋しいなんて、少しも……ぁ!」 首に巻き付いた黒い
魔王軍団長ランドールの仕事は的確で、早い。あっという間にパーティを弱らせ、体力も魔力もエンプティで玉座の間に誘い込んだ。 魔王の目の前には、魔法で拘束されたパーティの四人が並んでいた。(人手不足、魔王が想っているより深刻なのかも) ランドールの本気が垣間見える。ここまで欲しがる人間というのも、珍しい。理由は聞くまでもなく理解できた。「戦士と勇者、賢者のポテンシャル、高いだろ。魔族転嫁したら良い悪魔になるぜ」 ランドールが得意げに語る。 確かに喰うには惜しい。特に賢者はパーティの中で一番若いが能力が抜きんでている。(それに、やっぱりこの子だ) 魔王の目は勇者に向いた。 傷だらけで魔王を睨み据える目に、ぞくりとした。(……美味しそう) 魔力だけでも舐めてみたい。人間の血は嫌いだが、この魔力が絡んだ血なら啜ってみたい。「そうだね。いい感じに使えそう。魔印、付けようか」 前に出ようとした魔王を、ランドールが庇った。同時に、戦士が殺気立った。「ふざけるな……魔族になど、屈するものか!」 腹に籠めた魔力で腕を振るう。縛っていた魔法の枷を、弾き砕いた。「お前を倒して、俺たちは国に帰る!」 剣を手に戦士が魔王めがけて走り込んだ。「ガイル兄様! 右です!」 勇者が戦士に向かって叫んだ。ほぼ同時に、ランドールが真横からガイルに蹴りを入れた。「なっ……いつの間に」 ついさっきまで目の前にいたランドールが脇から蹴りつけたのだから、驚くだろう。「そういうコトなんだよねぇ。人間と魔族の差ってさ」 魔王は独り言のように呟いた。運動能力も魔力量も桁が違うのだから、動きだって段違いだ。 ランドールに蹴り飛ばされて、ガイルの体が吹っ飛んだ。その先で着地して体制を立て直す。「やっぱりいいなぁ、お前。俺と一緒に、魔王軍で働こうぜ」 ガイルが、見えないランドールの姿を探す。「ぐっ……かはっ」 気が付いた時には、真上から落ちてきたランドールに踏みつけられていた。ガイルの屈強な身体が床に沈んだ。「悪くねぇ反応だったぜ」 ガイルの上でランドールが笑った。腕を抑えられて、ガイルが身動きできないでいる。「離せ! 正々堂々と勝負しろ!」「真っ向勝負したら、殺しちゃうだろ。傷付けねぇように優しくしてやったんだぜ」 ガイルが、唇を噛んだ。才のある戦
おぼろげな意識の中に浮かぶのは、一人の少年。魔王と目が合って、へたり込んだ体は震えていた。 あどけない瞳には、恐怖が浮かんで当然だった。なのに、あの瞳は――まるで憧れの相手を見付けたように、魔王を見つめ続けた。 おおよそ人間が魔王に向ける目ではない。(怯えない人間もいるのか) 捕食する魔族に人間が怯えるのは道理だ。 だったら、あの瞳が意味する感情は? よくわからないから、考えるのをやめた。 わからないことは深追いしない。生きるに必要ない思考だからだ。 なのに時々、あの少年の瞳を思い出す。 リンデル王国の最北端にそそり立つ岩山。その最上部には「北の魔王」の居城がある。人間を生の糧とする魔族を統べる王だ。城の一帯は魔国と呼ばれ、魔族が跋扈している。 魔鏡を眺めて、魔王は溜息を吐いた。「あーぁ、また来ちゃった。何回来ても同じなのになぁ」 人間のパーティが魔王討伐のため、魔王城にやってくる。その度に返り討ちだ。 魔力量も身体能力も体の頑丈さも、総てにおいて魔族が勝る。人間は逆立ちしたって魔族に勝てない。「何百年、同じこと繰り返したら、勝てないって気が付いてもらえるのかなぁ」 多くのパーティが魔王城を目指して、人間の国から魔国までやってくる。道のりもまた、人にとっては険しい。城まで辿り着けるパーティは、ほとんどない。 実際に魔王が相手にするパーティの数は、多くはないのだが。「餌としては重宝するけどさ。別に、人間を殺すのが好きなわけじゃ、ないんだよねぇ」 戦いを挑まれれば、魔王も対応せざるを得ない。「城が血で汚れるの、嫌い。人間の血って、鉄臭い」 かといって生け捕りにすると檻の中で自害したりする。勝手に死なれると、死体が腐って面倒だ。「せめて、今から自害しまーす、とか言ってくれたら、こっちも対応できるのに」 魔王城にまで辿り着いたのだから、今回のパーティは強いんだろう。血の雨が降るのは必須だ。 魔鏡を覗いた魔王の目が、留まった。「あれ、この子……」 戦士の後ろについて歩く勇者らしき青年を眺める。見覚えがある気がする。「それはないか。餌の顔とか、いちいち覚えてない」 魔王にとり人は皆、同じ顔に見える。「けど、この子は可愛いかも。造形は好みかな」 人間に興味を持った自分に、少しだけ驚いた。「俺は先頭、歩いてる戦士が好み